「消毒に来たぞ」
階段から翼の声がする。
ドアを開けると、消毒とガーゼと包帯を持った翼が立っていた。
「大丈夫だよ。1人で」
「できないだろ。利き腕だぞ」アハ、そうでした。
私は、おとなしく右腕を差し出した。
「痛っ」
まだ消毒がしみる。
「ねえ、優しくしてよ」
「少し我慢しろ」
わざわざ手当てをしに来てくれているのにどんな言いぐさだと思うけれど、翼の前では本音が出てしまうし、翼は翼で病院で見せるような優しさはない。
でも、これが気兼ねなくいられる理由だ。「なあ」
ん?
呼ばれて顔を上げると、真面目な顔をした翼がいた。「何よ」
「犯人、捕まったらしい」へ?
「随分早いのね」
「20歳の浪人生だって」 「へえー」翼の話によると、犯人は近くに住む2浪中の男の子。
医学部受験を目指していて、そのストレスから衝動的に犯行に及んだらしい。「お前、病院の袋に資料入れて持ち歩いていただろう?」
「うん」ちょうどいいサイズだったし、病院にはいくらでもあるし。
便利に使っていた。「それを見て、病院のスタッフだと思ったんだと」
ふーん。
まあ、とんだ逆恨みって事ね。 でも、待って「じゃあ、あの張り紙は?」
「別人らしい」そんな・・・
「とにかく、もうしばらくはおとなしくしているんだな」
「うん。痛っ」翼がピンセットで縫合した部分を触るから、つい声が出てしまった。
「何かあれば、すぐに言うんだぞ」
「分ってるって」 「本当か?」 翼は怪しいなって目をしてる。ったく、どこまで信用がないのよ。
「なあ」
ちょっと真面目な顔をした翼。 「何よ」 「もし、俺のファンだったらごめん」事件から1日休んで、私は仕事に戻った。犯人が捕まったとは言えきっと大騒ぎになっているだろうと思っていたけれど、案外そうでもなくて逆に驚いたし、救命部長が箝口令を敷いたらしいと聞かされてさすがと納得もした。 それに対してうちの部長はただ文句を言い続けている。「人騒がせな奴だなあ。大体、病院の備品なんてこれ見よがしに持ってるからこんなことになるんだよ。昨日休んだ分、今日は働いてください」 「はい」 できるだけ表情を崩さず、返事だけする。この人、なんとかならないのかしら。 小児科医としては優秀らしいけれど、人間としては・・・最悪。 特に私には敵対心丸出しで、優しい救命部長とは大違い。 どうせなら部長が刺されれば良かったのに。「紅羽、顔が怖いわよ。子供が泣くわ」 隣にいた夏美の呟き。フン。 怒りたくもなるわよ。 今だって、昨日休んだペナルティーって口実で週末の勤務を入れようとしている。「そんな顔するから、余計に言われるのよ」 「分ってます」 「じゃあ、直しなさい」 うっ。 それができないから困っているんじゃない。ブー、ブー、ブー。鳴り響くホットライン。「はい。NICUです。はい。はい。わかりました、向かいます」 どうやら、ドクターカーの出動要請だ。***「私行きます」 この場から逃出したくて、手を上げた。「山形先生はいい。ケガしてたんじゃあ仕事にならん」 「大丈夫です。行けます」さらに声を大きくしてみたが、部長は取り合ってもくれない。 「山形先生は待機。山田先生向かってください」結局、先輩ドクターが行くことになった。 本当に嫌な部長。 きっと春の歓迎会で手を握ろうとしたところを『セクハラで訴えますよ』なんて言ったからだろうな。 お酒の席なんだからって、その後みんなにも注意されたし。 はーぁ、本当に困ったものだわ。
翌朝。「オーイ、朝飯作ったから来いよ」階段の下から響く翼の声に誘われ1階のリビングへ降りた。「お邪魔します」うわー、美味しそうなフレンチトースト。「どうぞ」 「いただきます」うーん美味しい。 翼が作る料理って、本当に美味しい。 別に料理上手ってわけでもないのに、味や食感、火の通し加減がちょうどいい。 私が同じように作ってもどこか違うのは何でだろうって、よく考える。 そこでたどり着いた結論は、翼ってきっと舌が優秀なんだ。 それは才能とかじゃなくて、小さい頃から本当に美味しいものを食べてきたって事。 その料理に対する理想型を知っているから、それに近づけられる。 だから、翼の料理は美味しいのだ。「昨日、旦那早く帰ったな」 「あ、うん」一緒に住んでいれば当然気が付くことだろうから、今更誤魔化してもしょうがない。「呼び出し?」 「違う。喧嘩した」 「お前がまたわがまま言ったんだろう」やっぱりそう思うのか。 まあ、事実だけれど。ん? 翼がジッと私を見つめている。「何よ」 「・・・別に」 「はっきり言いなさい。翼らしくないわよ」何か言いたいって、顔に書いてあるのに。「お前、何も聞いてないのか?」 「だから、何を」 つい、声が大きくなった。「紅羽」 哀れむような翼の視線。な、何なのよ。「異動の話が、出てる」え?「それって・・・・公?」 「ああ」うそ、嘘よ。 私、何も、聞いてない。***「フフフ。私ってよっぽど性悪だと思われているのかなあ」だから、何も言わないのかなあ?と自虐的に笑ってみた。「裏表がなくてわかりやすい性格はお前らしいけど、人間そんなの真っ直ぐは生きられないんだ」そんなこと、
喧嘩別れしてしまった日から、公は忙しくなり連絡も途絶えがちになった。気にはなりながら、私も何も言わなかった。「おはよう」病棟センターに顔を出した私に、夏美が寄ってきた。「夏美、おはよう」「今日、抜糸だよね」「うん。これでやっと自由になれる」たった10日間だったけれど、凄く不便だった。これでやっと日常生活に戻れると思うと、やはりうれしい。「嫌がらせの犯人はまだ?」「うん」おそらく捕まらないまま終わる気がする。実際、事件以降は何も起きていない。「このまま忘れ去られると思うわ」私は別にそれでもいい。「抜糸が終われば、お酒も解禁でしょ?近いうち、みんなで飲みましょう」「そうね」「最近、総合内科に行った同期が凄く落ち込んでいるから」「なんで、何かあったの?」総合内科は体全身を見る科で、公もいるところだ。部長もいい人だし、問題ないはずだけれど。「来月から3ヶ月の予定で宮城先生が不在になるじゃない、そのせいで仕事が増えるらしいわ」「へー」結局公は、まず3カ月間の出張として向こうへ行ってその後正式に赴任の辞令が出るらしい。なんて、これもすべて翼から聞いた。公は何も話してはくれない。そして、今まで3日に一度は顔を出していた公が、家に来なくなった。もちろん、色々と忙しいのは分っているし、そのことに文句を言うつもりはない。毎晩、『今日も変わりなかったか?早く寝ろ』ってメッセージは変わらずやってくる。それに対して、『今日も変わりなかったわ』としか返さない私がいる。***「本当に、お前達は面倒くさいなあ」たまたま呼ばれた救急外来で、翼が話しかけてきた。「仕方ないじゃない」この性格は今更どうにもならない。「話しはしたのか?」「うん。昨日の夜」さすがに平日の月から金で診療所に
それから1ヶ月。公も診療所が忙しいらしく、連絡も途絶えがちになった。私の方も忙しさに追われていた。そんなとき、偶然公が言っている診療所からドクヘリの要請があった。患者は子供で、受け入れのため私が飛んだ。「お疲れ様です」ヘリが降りると同時にやって来たのは、診療所の看護師。その先に、ストレッチャーに乗せられた子供と公の姿。「お疲れ様です」私は駆け足で近づいた。そう言えば、随分久しぶりに公を見た気がする。「ああ、お疲れ様。患者は6歳男児。鉄棒から落ちて、頭部と頸椎を打っている。今のところバイタルは安定。意識もある」「わかりました。うちに搬送します」「お願いします」頭部を打ったとなると、脳外ね。頸椎は整形。「うぅーん」患者の苦しそうな声。6歳の子供が、鳴き声も上げずにいるって事は本当に苦しいんだと思う。早く、病院に連れて帰らないと。「じゃあ、これが紹介状と処方歴です。よろしくお願いします」「はい」久しぶりに間近で見る公。ちょっと焼けてる?往診のもあるって聞くから、外に出ることも多いのね。ん?何、横の看護師がやけに親しげだ。そういえば、翼が言っていたっけ、「旦那、向こうで女と暮らしてるらしいぞ。うちのドクターが行ったとき見たって」その時は、ふーんとしか思わなかったけれど、案外本当だったりして。・・・馬鹿。何ヤキモチ焼いてるのよ私。「山形先生、離陸します。お願いします」「はい」1人妄想に浸っていた私は、フライトナースの声で我に返った。***「あれ、脳外は?」ドクヘリの中から連絡しておいたのに、病院で待っていたのは翼と整形の先生だった。「脳外は今、オペ中。まずはこっちで見るから」「えぇ―」別に翼が不満なわけではないけれど、脳外に診て欲しかっ
その日の夕方。ちょうど帰ろうかと思ったタイミングで、翼からのメッセージが届いた。「飯行くか?」私は迷うことなく了解のスタンプを返した。色々言いながら、それでも気にかけてくれる翼が本当にありがたい。軟派なくせに良い奴なんだから。「オー、紅羽」病院を出ようと通用口まで来たところで、私に向かって手を振る翼が見えた。随分目立つことするじゃないかと思っていると、チラチラと感じる周囲からの視線。ん?遠くの方で、ジーッとこちらを見ている女の子。ああ、そういうことか。結局また、翼の女の子避けに利用されてしまったらしい。仕方ないから、今日はたくさん食べさせていただきましょう。***向かったのはいつもの大衆居酒屋。炭水化物嫌いな私にとって、食べられるメニュ-の多い幸せな夕食。その相手が気兼ねない翼なら文句はない。さー、食べるぞ。まずはビールで乾杯して、唐揚げ、サラダ、肉じゃがと、串揚げも。結構高カロリーに頼んでしまった。「お前って、本当わかりやすいよな」「何が?」「食欲がストレスと比例してる」「どういう意味?」「イライラしてるときは高カロリーな物を欲しがるし、そうでないときは割とあっさりした物を注文する。誰が見てもわかるよ」それは、えっと・・・単純だと言われているんだよね。「悪かったわね」良くも悪くも私の性格を知り尽くしいる翼に、今更何を隠すつもりもないけれど、この上から目線にはカチンとくる。そりゃあ、翼は欠点のない完璧王子ですものね。「で、お前はどうするの?」「何よ、いきなり」「3ヶ月の出張が終わったら、旦那に異動の辞令が出るぞ」そりゃあ、そうよね。それ前提での長期出張でしょうから。「ついて行かないのか?」「そんなの、行けるわけない」翼だって分ってるはず。
ん、んんー。まぶしい。それに、頭が痛い。え?えっと・・・ここは自宅の・・リビング。そうか、昨日は翼と飲みに出たんだった。うーん。窓からの朝日が・・・溶けてしまいそう。それに、リビングのソファーで寝たせいか体が痛い。「おーい、大丈夫か?」階段下から翼の声。「ぅーん、頭が痛い」「紅羽ー、8時過ぎてるぞー」え。ええ。ヤバイ、遅刻する。急がないと。体を起こし、顔を洗って、化粧は向こうに着いてからでもいいから。カバンに携帯と財布、後は・・・ハンカチ。それだけあればとりあえず大丈夫。ん?携帯に着信。それも十件以上。すべて公から。どうしたんだろう。***ブブブ。また公からの着信。「もしもーし」『お前、今どこ?』抑揚のない公の声。機嫌は良くないみたいね。「どこって、家よ」『自分の部屋?』「当たり前でしょ」他にどこがあるのよ。もー、この忙しいときに何なの。『昨日、何時に帰った?』「えーっと」覚えてない。と言えば、怒るね。『お前さあ、もう少し慎重に行動しろ。酔っ払ってどうやって帰ったかの記憶もないなんて、最悪だぞ』いきなり説教に自分の体調の悪さも手伝って、朝からプチンと切れてしまった。「何で?たまに飲みに出ただけでしょ。悪いの?」『ああ悪い。どこで誰が見ているかわからないんだから。自制しろ』はー、意味がわからない。自分は好きなことしてるくせに。あっ、やだ、もう8時半。「とにかく、昨日は翼と飲みに出ました。着信に気づかなかったのはごめんなさい。でも、公が何を怒っているのかわからない」『お前・・・』
ある日の午後、なかなか検査の順番が来ない赤ちゃんに部長が苛立っている。「山形先生。ちゃんと検査室に連絡してますか?」 「はい」言われなくたって何度もしてる。 でも、急患で検査室も手一杯みたい。「いつまで待たせるんだよ。やることしろよっ」近くにいる私にしか聞こえない音量でぼやく部長。 おかげで、私の気分も最悪だ。 私はいったい何のためにここにいるんだろう。 最近、本気でここから逃げ出したくなる。先日、公の異動が正式発表になった。 地元からの強い要望があったと噂で聞いたが、結局公からは何も聞かされなかった。 辞令の執行は1ヶ月後。 それまでは、このまま長期出張として現地で勤務するらしい。そして、ここ半月公から私への連絡は完全に途絶えたまま。 かわいくない私は、自分から連絡することもしなかった。 いらだちと不安で、一人悶々とする日々。 追い打ちをかけるように、『宮城先生が退職するらしい』と耳にした。 噂にしてはタイムリー過ぎて笑い飛ばすことのできない状況に、さすがに不安になって公に電話をしてみたけれど、タイミングが悪かったようでつながらなかった。 けれど、きっとそのうち折り返しの電話がかかってくると思っていた。 しかし、いくら待っても電話はないまま時間だけが過ぎていった。。 今でも私は公の彼女のつもりだが、公は違ったらしい。 考えてみれば、私は公に何もしてあげていないし、こんなに大変な時期に優しい言葉をかけることもできなかった。 本当にかわいくない女だ。 公はこれからどうする気だろう。 公の人生に私は含まれていないんだろうか。***数日後。 我慢の限界を迎えた私は、有休を取った。 今まで仮病で休んだことなんてなかったのに、『すみません、風邪で休みます』と嘘をついてしまった。 そして、私が向かったのは山の中の診療所。 ガタガタの田舎道。 緑深い山里。
10分ほど待って、「山形さーん」と診察室へ呼ばれた。「どうぞ」声をかけた公が、パソコンから顔を上げこちらを向いた瞬間に驚いた顔をした。久しぶりに公の顔を見た私はうれしくて、微笑んでしまった。なんだかとても元気そう。痩せた様子もないし、着ている服も綺麗にアイロンがかけられていて、清潔感がある。自分でしたのかなあ、それとも・・・「どうしました?」「ええ?」私に気づいたはずの公が、発した言葉に今度は私が驚いた。「今日はどうされました?」どうやら公は、医者と患者で通す気らしい。それなら私も、付き合います。「最近胃の調子が悪くて・・・」「痛みがありますか?」「はい」「それは、空腹時?」「うーん、気がつけばって感じなので・・・」「どの辺りが痛みますか?」「えーっと、この辺?」胃の辺りをさすってみた。「食事はとれていますか?」「はい」ところでこの小芝居、いつまで続ける気だろうか?もしかして、公は怒ってる?だんだん不安になってきた。***「便通は?」さすがに恥ずかしくて言葉に詰まった。「うんちです」再度たずねてくる公。分っています。「大丈夫です」精一杯答えたのに、「毎日ありますか?」許してはくれないらしい。あー、恥ずかしい。「便通は毎日ありますか?」まるで日本語がわからない患者を相手にするように、繰り返す公。ひょっとして、いじめて楽しんでいるんだろうか?「2日に一度くらいです」こうなったら根比べとばかり、私も開き直った。「生理は?」「はぁ?」「最後はいつでした?」「・・・先月の頭です」「遅れてますか?」「元々不順なので」
「オイ、しっかりしろ」聞こえてきたのは、翼の声だった。ここは・・・病院で、私は・・・倒れたんだ。赤ちゃんは?「紅羽、大丈夫か?」今度は父の声。私はゆっくりと目をけ、体を起こそうとした。「馬鹿、寝てろ」翼が肩に手を当て、私を止める。「そうだぞ、今はじっとしていなさい」父の言葉にウンウンと翼が頷く。父さんと翼は以前から何度か顔を合わせている。もちろん友達としてで、まさか一緒に暮らしているとは思っていないけれど面識はある。「心配いらないからな。落ち着くまで、もう少し寝ていろ」「うん」翼は優しく言ってくれるけれど、私にはわかった。自分の体だもの。わからないはずがない。今も・・・出血が続いている。「検査だな」「俺が診ますから」救命部長の声に対して、いつになく翼の語気が強い。てきぱきと処置をする翼に部長を含め反対する者はなく、みんな遠巻きに見ている。「とりあえず、師長、救急病棟の部屋を用意してください」「個室でいいですよね」「ええ、かまいません」なぜか翼が答えている。差額ベット代を払うのは私ですがと思ったけれど、今は黙っていよう。「検査は血液検査と、超音波は病室に上がってからにします」「レントゲンは?」「うーん、後でいいです。とにかく、病室に上げてやりましょう」「「はい」」師長の問いに翼が言い切り、救命部長も了承した。本来なら、この状況ではレントゲンが必須だと思う。でも、妊娠初期の私にレントゲンはできない。翼はわかっていて断ってくれたんだ。もしかしたら、部長も師長も気づいたかも知れないけれど、結局みんな黙ってくれた。***入院したのは救急病棟の特別室。朝方まで付き添っていた父さんが帰り、翼と2人になった。「救命部長、きっと気づいた
大学の時の担当教授に『お前、子供は好きか』と聞かれ、『いいえ』と答えた。すると、『じゃあ小児科に行け』と言われ驚いた。『意地悪ですか?』と返すと『違う。子供好きに小児科医は向かない。お前みたいな奴が小児科にはいいんだ』と。なぜだろうと首をかしげると、『小児科は子供が亡くなっていくところを見なくちゃいけない』と言われ納得した。ああ、なるほど。それを聞いて、私は小児科を希望した。「紅羽」「夏美、遅くなってごめん」「さっき亡くなったわ」「そう」やっぱり間に合わなかったか。NICUに入ると、小さなベットを何人もの大人が囲んでいた。「山形先生」唯ちゃんのお母さんが、駆けよって私の手を取った。ゆっくり歩み寄り、見えてきたのはベットの上で眠っている唯ちゃんの、2歳の誕生日を迎えたはずなのにとっても小さな体。いつもは何本もの管でつながれ機械の音がしているのに、今はすべて外されて安らかな顔だ。「お世話になりました」涙を流しお父さんがお礼を言っている。結衣ちゃんを囲む看護師達の目が、みなウルウルとしている。でも、私はここでは泣かない。医者は命を預かるんだ。『患者は医者を頼っているんだから、絶対に泣くな』研修医時代にそう教えられた。だから、私は患者の前では涙を見せない。***ご両親や今まで関わってきた病院スタッフにたっぷり抱っこしてもらった後、唯ちゃんは生まれて初めて病院を出た。私は、寂しさがこみ上げた。たった2年の短い命。病院から出ることもできず、痛いこともいっぱいされて、頑張って生きた人生。唯ちゃんの生きた時間って何だったんだろうと、自分が親になろうとしている今だからこそ思いが募ってしまう。「紅羽、帰るの?」「うん。父さんが車で待っているから」「ふーん」夏美が何か言いたそうにしている。辞令が出た後体調不良でずっと休んでいたから、きっと言いたいことも聞
実家に戻って数日、体調も良くて穏やかに過ごしていた。正直、仕事のことは頭になかった。そんなとき、突然鳴ったスマホの着信。時刻は夜の9時。何だろうと確認すると夏美からの着信で、珍しいなと思いながらすごくイヤな予感がした。「もしもし」「山形先生?」えっ?夏美がこんな呼び方をするのは仕事の時。って事は、誰かが急変?「どうしたの?」幾分自分の声が緊張しているのがわかる。「唯ちゃんが急変した」「嘘」「本当よ。あなた、月末まではこっちの病院に席があるんだったわよね?」「ええ」だったら来なさいと、夏美は言っている。私にも躊躇いはなかった。「少し時間はかかるけれど、向かうから」「ええ、待ってる」今から向かっても間に合うかどうかはわからないけれど、とにかく行こう。夏美からの電話を切ってから、私は身支度を始めた。駅まで行って電車があるか確認して、もしダメならタクシーを拾おう。こんな時間に黙って帰るわけにもいかず、私は両親の部屋をたずねた。「ごめん、受け持ちの患者が急変らしくて、一旦帰るわ」荷物を手に声をかけると、なぜか父が立ち上がった。「送っていく」「でも・・・」「お前車で来ていないんだろう?」それはそうだけれど。「無理したらダメよ。1人の体じゃないんだから」母にも言われ、素直に送ってもらうことにした。***結局父さんの車に乗せられ、家を出た。最初は駅まで行くのかなと思っていたが、車はそのまま高速へ。「駅で電車を探すのに」「この時間じゃあるかわからんだろう」「でも・・・」「いいんだ。着くまで寝てろ」私は、無性に胸が熱くなった。その後も、無言の車内。目を閉じても眠ることはできず、代わり映えのしない車窓を眺めて過ごした。
本堂に向かうと父がすでに座っていて、母さんも後ろから入ってきた。「紅羽、何か言うことはないか?」 広い本堂の中に響く父の声。「勤務先を異動になりました」やはり、本題はなかなか口にできなくて、当たり障りのないことを言ってしまった。「いつからなの?」母の声が後ろから聞こえ、父はジーッと私を見ている。「来月から、隣町の市立病院に行くの」 「随分中途半端な時期ね」 「うん。部長ともめて・・・とばされてしまった」 「まあ」 母が驚いている。でも、そのことを咎めようとはしない。 子供の頃から、母さんはいつも私の味方だったから、あまり叱られた覚えがない。 友達の家では、『普段口うるさく注意するのはお母さんで、お父さんは何も言わない』よくそんな話を聞いたけれど、我が家は違っていた。 叱るのはいつも父さんの役目だった。「それだけか?」父の顔が険しい。 きっと、父も母も気づいている。 もう、ごまかすことはできないんだ。「赤ちゃんが、できました」 「父親は?」 「・・・」 言えない。「紅羽、こっちに帰ってきなさい」 え? 「1人で子供を育てられるはずないだろう」 「・・・」 「育児をなめるな」 「・・・」父と母は実の子供には恵まれなかったが、私を育ててくれた。 色んな思いや、苦労があったのだと思う。 だからこそ、「妊娠してしまった」と言った私に怒っているのだ。「どうやって子供を育てますってビジョンがないなら、帰ってきなさい。いい加減な気持ちで親になろうなんて、父さんは許さない。いいね」 そう言ったきり父さんは席を立った。住職であり元教師の父の言葉は重たくて、今の私には反論できなかった。「子育ては紅羽が思うよりも大変よ。ちゃんと父さんを納得させられないなら、帰ってきなさい」 「母さん・・・
私は病気療養の名目で2週間の休みをもらい、このままでいけば休み明けから次の勤務先へ異動になる予定だ。妊娠の事は秘密の為、周りから見れば異動が嫌で駄駄をこねている様に見えるけれど、今は仕方ない。そんな事にかまっていられないから、ありがたく静養と異動の準備をさせてもらおうと思う。とはいえ、勤務先は隣町のため住居の引っ越しは不要で、これまで通り翼との同居は継続する。長期休暇のお陰で、つわりの為に弱った体をゆっくり休ませることができた。時間を気にすることもなくゴロゴロとベットで過ごし、病院にも行き、母子手帳ももらった。そして、自分自身と向き合った。少しずつではあるけれど、あれだけ悩んでいた妊娠も、出産も、自然と受け入れられるようになってきた。産婦人科は、自宅から少し離れた小さなクリニック。知り合いに会わないことを第一条件に選んだ。「独身ですね。生みますか?」「はい」40過ぎの女医さんに聞かれ、はっきりと答えられた。普段小さな子供達を患者として診ている私にとって、生まれてきてくれる命は奇跡でしかない。その命を絶つなんて・・・考えられない。もちろん、そうなると現実的な問題は出てくるが、幸い私の周りには子育てしてる女医さんも多い。私にだってできなくはないと、思えてきた。***日がたつにつれ、つわりにも慣れてきた。そんな時、私は体調のいい日を見計らって久しぶりに実家へ帰省した。私の生まれ育ったのは、隣の県。今の家からは電車で2時間の距離で、のどかな田園風景が広がる田舎町だ。うーん、懐かしい。ここに帰るのは1年ぶりかな。そんなに遠いわけではないけれど、つい足が遠のいていた。「お帰り、紅羽」「ただいま」母が駅まで出迎えに来てくれた。「父さんは?」中学教師の母さんは平日仕事のはずだから、今日は父さんが迎えに来てくれると思っていた。「お父さん、急に葬儀が入ったのよ」
ガチャ。すっかり寝てしまった紅羽を抱えて玄関を開けると、福井翼が顔を出した。「おかえりなさい」「ただいま」俺の家でもないのに、自然と口を出た。「寝たんですか?」「ああ」「先生も大変ですね」「まあな」多感な思春期を他人の家ですごしたせいで、俺は外面のいい人間になってしまった。いつ笑顔でニコニコしているから年寄りには好かれるし、愛想が良ければ仕事もやりやすい。そんな宮城公を自分で作り上げた。しかし、こいつに関わる時でだけ本性が出てしまうんだ。よほど疲れていたのか、部屋まで運びベットに寝かせても紅羽は起きなかった。その後キッチンに入り、冷蔵庫を空けてみると、中身は水と、ビールと、卵が数個だけ。「相変わらずの食生活か」とてもじゃないが、妊婦の、いや女性の家とは思えない。***「荷物、置きますね」玄関に置いたままだった荷物を、翼が運んできた。「ああ、すまないな。ビール飲むか?」「ええ、いただきます」ダイニングに座り、つまみもなしでビールを空けた。「寝ましたか?」「ああ。人の気も知らずに夢の中だ」「食べれてなかったし、眠れてなかったし、最近辛そうでしたから」ふーん。こいつは俺よりも紅羽のことを知ってる訳か。「悪いが、気にかけてやってくれ」色々と思う所はあるが、やはり頼れるのはこいつだけだ。「わかりました。で、どうする気ですか?」翼の探るような視線。「それは、あいつが決めることだ」人の言うことを素直に聞く女じゃない。「先生はどうしたいんですか?」それでも翼は食い下がる。「俺は・・・ポケットにしまっておきたい」「はあ?」やはり、唖然とされた。しかし、これが本心だ。できることならこのまま連れて帰りたいが、できない
送っていく車の中で、紅羽は眠ってしまった。妊娠するとホルモンのバランスが変わって眠たくなることもあるらしいし、つわりも体調の変化も人それぞれ。症状も、一概にこうだと言えるものはない。まあ、命を1つはぐくもうと言うんだからそれなりに体の負担は避けられないのだろう。それにしても、どうしたものだか。こいつが母親になるなんて、想像もできない。いつも真っ直ぐで、正直で、それでいて不器用で、心配で目を離すことができなかった。最初は妹を見るように見ていたのに、いつの間にか手を出していた。近付けば近づくほど彼女の側を離れられなくなって、お互いを恋人と認識するようになった。二人の関係を隠したつもりはない。一緒に手をつなぎ、堂々と街を歩きたかった。でも、余計なことを口にしない紅羽にあわせているうちに、秘密の交際のようになってしまった。それが・・・子供ができるなんて。「うぅんー」助手席から聞こえてくる紅羽の声に幸せを感じる。こんな時間をずっと過ごせたら、いいだろうなあ。「かわいい顔して、強情な奴だ」***俺の両親はごく普通の会社員と専業主婦だった。小さなアパートに4人暮らしで、俺の上に姉がいる。体の弱い母は働きに出ることもできず、決して裕福ではなかった。父は寡黙で真面目な仕事人間。母は、元々金持ちの娘だったらしい。駆け落ちして一緒になったと大きくなってから聞かされた。そんな母も、俺が13歳、姉貴が15歳の時に病気で死んでしまった。母の訃報を聞いて駆けつけた祖父は「お前が娘を殺したんだ」と父に罵声を浴びせた。葬儀の後、俺と姉貴は母の実家に連れて行かれたが、父は止めなかった。一生懸命頑張りすぎた父は、母が亡くなる前から心を壊してしまっていて、病院を出たり入ったりの暮らしだった。そんな父に子供を育てられるはずもなく、どうしようもない選択だったのだろう。3年後、父は病院で亡くなった。金持ちの家とは言えすで
翌朝、渋滞を避けて早めに家を出た。 この体で長いドライブをすることに不安はあったけれど、行かなくてはいけない気がして車を走らせた。 以前来たときは綺麗な緑に覆われていたのに、今は枯れ葉が舞っている。 なんだか寂しいわねと少し感傷的な気分になりながら、私は診療所への道を進んだ。 「こんにちは」まだ診察前なのは分っていて、玄関から声をかける。「はーい」出てきた看護師の、どなたですかと怪しむような視線。「私、山形と言います。公、いえ、宮城先生はいらっしゃいますか?」 「先生ー」看護師に呼ばれ、公が奧の診察室から出てきた。「え、お前」やっぱり、驚かれた。 何も言わずにやって来たのだから、当然だろう。「お知り合いですか?」 「同僚です」看護師に聞かれても、私はそう答えるしかなかった。***公が診察の間は、院長室で休ませてもらった。 環境が変わって気が紛れたのか、今日は吐き気がしない。 来客用のソファーにもたれかかりながら、時々聞こえる公の声に耳を澄ませた。「どうかした?」昼前になり戻ってきた公が、なぜか不機嫌な私に渋い顔をする。「別に。どうもしないけど・・・」 「話があるんだろ」こんな平日に前触れもなく訪れれば、何かあったと思うに決まっている。「実は・・・赤ちゃんができたの」私は、核心のみをはっきりと伝えた。「そうか」驚く様子も見せず、公は私をそっと抱きしめた。「私、迷ってるの」正直、生んで育てる自信なんてない。「俺は、どんな結論も受け入れる」男ってずるい。 決められないからここにいるのに・・・「妊娠も出産も私ばっかり。私だって、医師としてのキャリアを積みたいのに」公の前で歯止めがきかなくなって、甘えが出てしまった。
「うっ、気持ち悪い」今日も朝から吐き気に襲われる。ペットボトルのミネラルウォーターを冷蔵庫から取り出し一口含んだが、やはり吐き気は治まらない。ここのところずーっとこの調子で、夏美にも「いい加減に受診しなさい」と毎日言われている。マズイなあ。できれば休みたくないのに、この状態では仕事にならない。「おーい、紅羽。大丈夫か?」階段の下から翼の声がした途端、私は座り込んでしまった。ダダダッと階段を上がる足音。トントン。「入るぞ」返事を待つことなく入ってきた翼が、私を見下ろす。「気持ち悪い」小学校の遠足でバスに酔ったときより酷くて、2日酔いの10倍は辛い。「そんな所にいたら良くならないだろう」冷蔵庫の前に座り込んだ私を、翼が手を差し出して抱えようとする。抵抗する気力もない私は、膝とエチケット袋を抱えたまま翼に寄りかかった。「今日の勤務は無理だな」「・・・うん」この状態では仕事にならないと私にだって分っている。でも・・・先日出た辞令で、私は異動は決まっている。すでに公表になっていて、1か月後には隣町の市立病院へ移らなくてはいけない。異動先も救急外来を持つ総合病院だから、左遷ってわけではない。早いか遅いかの違いで、夏美だって翼だって異動はあるし、いつまでも同じ現場にいられる医者なんてごく一部でしかない。それは分ってはいるけれど・・・***「離島に飛ばされたわけでも、山の中に送り込まれたわけでもないだろう。そんなに落ち込むな」「分ってるわよっ」翼に言われなくたって、転勤は勤務医の宿命なのだから諦めるしかないと頭では理解してる。「仕方ないから、今日は休め」動けない私が仕事に行けるはずもないが、やはり休みたくはない。「今休んだら、駄々をこねているみたいだわ」「言いたい奴には言わせておけ」「・・・うん」